茅野裕城子さん著「バービーからはじまった」
最初にこの本を手に取ったのは、いつのことだったか。
もう、随分と昔の話です。
バービー人形の洋服が好きで、何十年も前のヴィンテージの人形服に、なぜこんなに惹かれるのか、自分でもわかりませんでしたが、この本を読んで謎が解けました。
1960年代に作られた、バービーの服。
今でも、当時の日本製バービーのヴィンテージ服は、オークションなどで高値で取引されるほど人気です。
この本には、時を超えて人々を惹きつける価値を持つ、1960年代のバービーのお洋服ができるまでの過程が、詳しく描かれています。
バービーの服ができるまで
バービーは、アメリカのマテル社から発売された着せ替え人形でした。
1959年のバービー発売に合わせて、22種類の着せ替え服が作られました。
発売当初のバービーの服は、日本製でした。
今なお人気のあるヴィンテージ・バービー服は、1960年代に作られた日本製のバービーの着せ替え服です。
子供用着せ替え人形の服でありながら、その縫製の良さ、緻密さ、センスの良さ、マニアックなまでの完成度の高さは、大人になった今でも見飽きることがありません。
そんなバービーの服を縫製したのは、日本の内職の女性たちです。
女性たちは、自宅にミシンを置き、下請け工場から内職として、バービーの服を作っていました。
今でも初期のヴィンテージ・バービー服の売り手たちが自分たちのアイテムを売る時、強調するのは「Made in Japan」の品物であるということ。
コレクターにとっては、1960年代のMade in Japanのバービー服は、ブランドのような価値を持ちます。
バービーの服が、日本で縫製されることになった時代背景と今
当時、日本は高度成長期へと向かう前段階におり、1ドル:360円の固定レートの時代でした。
アメリカのマテル社には、安い工賃で質の高い製品を、日本で作らせようという思惑があったのでしょう。
現代の日本が、中国やベトナムの縫製工場に、縫製依頼するのと同じですね。
安い縫製工賃を求め続けた結果、今や、日本の縫製現場は、すっかり海外に乗っ取られてしまいました。
日本が経済大国として発展し、日本人の賃金も上がり、給料の安い縫製の仕事をする人たちは激減しました。
それでも、機械化、自動化が進む時代でも、縫製だけは、人の手作業なしでは無理です。
手縫いにしろ、ミシン縫いにしろ、どうやったって、人が縫わないと洋服は作れないわけです。
様々なパターンを要する洋服の縫製は、機械化することはできません。
洋服の値段も、ファスト・ファッションの台頭で大量生産化され、単価が安くなりました。
だから、もっともっと安い縫製工賃を求めて、日本の縫製の現場は中国へと移ります。
そして、今、かつての日本のように経済が発展してきた中国では、安い賃金で縫製工場で働こうという人は減ってきています。
中国人の、縫製工賃も上がりました。
それで、どうなったか?
縫製の現場は、ベトナムやカンボジア、バングラディシュへと移っています。
こうして、安く人が使える国へ国へと、縫製の現場は移り続けて行くのでしょうか?
ベルトコンベアーのように、一部のパーツだけをひたすら縫製し、次のパーツは他の人がひたすら縫製するという大量生産の縫製のやり方でできる今の服に、かつての洋服が持つオーラはありません。
昔の内職婦人たちの現場
バービーのお洋服を縫った内職の婦人たちが活躍したのは、東京オリンピックの頃です。
当時の女性にとって、ミシンを持つことは憧れの一つでした。
ミシンがあれば、家で仕事ができる。
当時のミシンは、一般男性の初任給の倍以上する高価なものでしたが、「仕事で使うから」と、多くの女性たちが月賦でミシンを購入しました。
女性たちはこぞってミシンを購入し、洋服を仕立てて家計を助けました。
うちの実家にも、おばあちゃんが購入した年代物の足踏みミシンがありますが、未だに現役です。
デザインも重厚かつレトロな趣があって、今見ても素敵なミシンです。
内職婦人たちの気概に感動する
当時のバービー服の検品は、非常に厳しいものだったという。
少しでもステッチがずれていたりすると、それだけでハネられてしまう。
「1ミリ留め」と呼ばれる細かい作業で、要所はきっちり止める。
細かいものだけに、ミシンを止め、方向を変える回数が非常に多いため、ミシン故障の原因にさえなる程だった。
初期のバービー服には、裏地のほつれ止めにナイロン・チュールが使われていた。
マテル社から、「質の良いことは大切だが、省ける部分は省いてもいいのではないか」という提言があり、ほつれ止めに使っているチュールを廃止してはどうかということになった。
内職婦人たちに、「マテル社の方針で、これからはチュールのほつれ止めを使わないことにする。」と告げると、婦人たちは猛反対する。
「そういうことなら、その分の工賃は貰わなくてもいいから、今までどおり、裏地には、チュールのほつれ止めを使いたい。」と内職婦人たちは言います。
内職婦人たちには、「バービーの可愛い素敵な服を作っているのは自分たちだ」という自負があったのですね。
自分たちが携わっているものは、何か素敵で、きれいで、いいもので、大好きなもので、それからチュールのほつれ止めがなくなったらダメなのだと、内職婦人たちは、他の誰よりもよく知っていた。
アメリカの会社は、安い縫製工賃を狙って、日本の内職婦人たちに縫製してもらうことにしたわけですが、内職婦人たちのプライドは、お金のためだけに働いていたわけではなかったということです。
自分たちが作っているものへの、誇りと情熱。
私は、自分がなぜ、ヴィンテージ・バービー服に惹かれるのか、その理由がわかった気がしました。
働くということを考える
日本が、高度経済成長へと向かった時代。
当時の人たちにとって「働く」ということの意味が、今の日本人と違っていたような感じを受けます。
一昔前、エコノミック・アニマルなどと揶揄された日本人サラリーマン。
でも働きマシーンのように働くだけでは、ここまで急速な発展はなかったと思います。
日本のものづくりには、プライドと情熱がある。
今、70〜80代くらいの世代の方とお話しすると、働くということ自体が身体に染み付いているというか、働くこと自体が生きがいになっているような印象を受けます。
はっきりと実感したのは、ayurclothの活動を始めて、多くの高齢者の方々とお話しする機会を持つようになってからです。
70歳、80歳になっても、身体が動くうちは何かしていたい。
それが生きる張り合いにもなっている。
今までの長い人生で、自分が培ってきた技術やノウハウを、活かせる場があるなら何でもやりたい。
それは、お金のためではない。
働ける自分というものが、自己肯定に繋がっているという印象を受けます。
旅行に行ったり、美味しいものを食べたりするのも楽しい。
でも、幾つになっても、それだけでは、満足できない。
私がOL時代、いつも何かを探しているような、迷っているような気分でいたのは、なぜだったのか?
仕事にも、同僚にも恵まれ、やりがいもあり、楽しく働いてはいたのだけれど、時折感じる焦燥感。
外資系アメリカ企業だったということもあるかもしれません。
数字、数字で、人の入れ替わりも激しい。
本社の一声で、昨日までのボスがリストラにあっていなくなる。
自分でなくてもいくらでも代わりがいるような、数字かチェスの駒のような感覚。
そんなことはなかったかのように、みんな大人な対応で、和やかに仕事をする決まりになっているような。
やりがいを持って、楽しく働いてはいましたが、ストレスも抱えていました。
そんなことは、誰でも当たり前のことで、甘えなのかもしれません。
それでも、私は、自分の人生を自分で決めるという点において、このままずっと、こんな気持ちで働くことに向き合うのは嫌だと思ったのです。
自分の人生の長い時間を、働くことに費やすわけですから。
時代も違いますので、昔は良かったの懐古主義で、一昔前のような働き方をしようとは思いません。
ただ、今の物質的にはある程度豊かな日本を作ってくれた世代の方の「仕事観」に触れて、今なお何かに貢献したいという依存心のない志の70歳、80歳の方々に会うと、涙が出るような気持ちになりました。
前の世代の方々が頑張って、物質的に困らないところまで、日本を浮かべてくれたのだと。
他の国と比べても、それは当然の事ではなく、その恩恵に自分は預かっているのだと思います。
それなのに、なぜ自分は働くことに一抹の焦燥感を持ち、満足することがなかったのか。
私たち世代の日本人は、何か別のものを「働く」ということに対して求めている。
それが何なのかは、これからayurclothの活動をしていく上で、探していきたいと思っています。
わかっているのは、お金のためだけでもなく、達成感のためでもなく、やり甲斐のためでも、生き甲斐のためでもないということ。
自分や、家族のためだけでもない。
何かの繋がりのようなものを求めている気がします。
関わる人たち皆んなで良くなっていきたいような、ハッピーな暖かい循環の中に身を置いて居たいような。
まずは、気持ち良く働いている人たちと組んで、気持ち良く仕事をしていくところから始めたいと思います。
今までも自分が決めた職場で楽しく働いては来たのですが、自分が何かと繋がっていたり、善意や助け合う優しい気持ちの場所に居るという実感を持てなかった。
ayurclothの活動は、やっと見つけた、私のやりたい事です。
→縫製工場を探して。手織り生地を縫製してくれる縫製工場を探す難しさ
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